薬業界の激変期
今日における日本薬業界、その原型が形作られたのは明治・大正期と言えるだろう。医療行政制度の基本的な方針を示した「医制」が発布され、日本薬局方の第1版が公布された。そして、第一次世界大戦によって医薬品輸入が滞ると、政府は製薬産業の助成を本格化し、これは薬業者発展の契機になった。
しかし、少数の薬業者は政府が援助を本格化させる以前から、製薬事業に乗り出していた。そして、医薬品の流通業者だった彼らが製薬を手がけることになった時、技術開発および専門知識を持つ研究人材を束ねる役割が必要とされた。現在で言うCTOである。
前述したいち早く製薬事業に取り組んだ数少ない薬業者の中に、武田長兵衞商店(現武田薬品)と塩野義三郎商店(現塩野義製薬)が含まれていた。以下、武田長兵衞商店の5代目当主の弟武田二郎、塩野義三郎商店の2代目当主塩野義三郎の弟塩野長次郎の事績を追い、日本での西洋薬品製造の黎明期における技術指導者の役割を紹介する。
2人の生い立ちから経営参画まで
武田二郎は四代武田長兵衞の末子として、1887年に生まれた。1911年、東京帝国大学薬学科を卒業し、大学院へ進学した。武田長兵衞商店に入店した後、医薬品開発を主導していくことになる。学生時代の武田二郎の人となりについては「武田二郎博士追想」に記述がある。武田長兵衞商店に入り、副社長、相談役となる三宅馨は、学生時代の武田二郎の温厚さ、親切なふるまいについて述べている。
塩野長次郎は初代塩野義三郎の次男として、1883年に生まれた。1907年、前述した武田二郎と同様に東京帝国大学薬学科を卒業した後、経営に参画する。薬学士であり三共に就職した村井秀は、大学卒業間近に塩野長次郎が語った内容の要旨であると前置きした上で、長次郎が「自分たちには日本の製薬業を成長させる責務がある」と述べた、と「四十九年:故塩野長次郎追懐録」で紹介している。高等教育機関を卒業することへの矜持と使命感がうかがえる。
武田二郎の事績
武田二郎が武田長兵衞商店に事業参画したのは14年のことである。同商店では薬学博士の朝比奈泰彦に指導された研究者が活躍した。大学院にまで進学した武田二郎を起点とした人間関係による人材調達といって良いだろう。
商店の製薬事業は四代武田長兵衞の代から始まり、薬剤師の内林直吉の貢献もあって、既に工場が設立されていた。
武田二郎は、そこに研究部、薬品試験所を設立し、18年に彼を社長とする武田製薬株式会社を創立する。しかし、同年に第一次世界大戦の休戦協定が締結されたことで、物価と賃金の高騰が維持されたまま医薬品価格が続落し、同社は大きな影響を受けた。
武田二郎の最初の成果と言えるのが、睡眠薬カルモチンだ。ドイツからの輸入が途絶して品不足になった催眠剤ブロムラールの国産化を企図した横浜のカールローデ商会の柳沢保太郎が協力を要請した1人に武田二郎がおり、製造研究に着手した。
その結果、15年9月に合成製造技術を確立し、17年からカルモチンとして発売された。
そして24年に発売された解熱・鎮痛剤テピラールは、武田長兵衞商店が自社で研究開発した末に生み出された最初の自家製新薬である。武田二郎は、それまで市場に出回っていた解熱・鎮痛剤の成分を調査し、それらを複合した化合物の製法の研究を指示した。その結果、23年には大阪工場で工業化を達成し、改良が加えられた後に発売に至った。
また、武田二郎は自らの役割を有能な人物を物色、選択して推薦、適所に配置することと認識していた。とはいえ、製薬事業を始めたばかりの武田長兵衛商店であるから、武田二郎の考えを皆がすぐに共有したとは考えにくい。
商店の支配人を務めた竹田義藏は、武田二郎を、技術員を大成させるために楯となって努力した人物と評価している。当時の武田二郎の板挟みぶりがうかがえる。
塩野長次郎の事績
1878年創立の塩野義三郎商店は当初、漢薬の売買が主業務であったが、86年の時点で洋薬に移行した。また、初代塩野義三郎は薬品の売買だけに満足せず、87年頃から製薬事業を志向したものの赤字が続き、99年に薬品製造の廃業届を大阪府に提出することとなった。
その相生町工場は、塩野長次郎の手により再開されることとなった。卒業式の日、兄正太郎が長距離電話で帰郷と事業参画を催促したという。期待の大きさが伝わるエピソードだ。
その期待に応えるべく、塩野長次郎は薬品原料の事情を視察するためインドを中心に東南アジアを回った。
彼は1908年6月、初代義三郎が製薬を試みた相生町工場に移り住み、以前の工場の仕事場が納屋になっていたのを手入れして試験室を作った。分析用器具はあったものの、製造設備はユキヒラ、七輪、カマドなどだった。製薬事業の黎明期に相応しい装いと言えよう。
塩野長次郎の最初の成果は、制酸剤アンタチヂンである。08年、塩野義三郎商店の薬剤師である児玉秀衛が高洲謙一郎博士から医薬品開発のヒントを得て長次郎が試製し、高洲博士の意見を聞いて製品化を進め、その過程で商品名も決まり、翌年に発売した。
アンタチヂン製造成功の後、初代塩野義三郎はさらなる新薬開発に意欲を燃やし、09(明治42)年の秋から、海老江の新淀川河畔に新工場の建設を開始した。翌10年1月に完成し、そこへ相生町工場の設備も移され、塩野製薬所として操業を開始して塩野長次郎が所長を務めた。
東京帝国大学で副手を務めていた近藤平三郎博士と11年から懇親を図り、15年に設立された乙卯研究所の所長を近藤博士が務めることとなった。同所は研究開発だけでなく、塩野義三郎商店から技術者が派遣され、人材育成の役割をも担った。
近藤平三郎から塩野長次郎に話が渡って開発された強心剤ヂギタミンは12年に発売された。当初はロシュのヂガーレンと競合し苦戦を強いられたが、第一次世界大戦で輸入が途絶し、躍進することとなった。
塩野製薬所所長としての長次郎の人となりについては「四十九年:故塩野長次郎追懐録」に記述があり、温和な姿勢や人の長短を見抜く観察眼、事故発生時の分析能力などが評価されている。研究開発や人材育成には多面的な観点が必要と考えていたことが分かる。
自社の製薬事業黎明期を支えた2人
以上、武田二郎および塩野長次郎の事績を見てきた。2人とも新商品の開発および研究人材の確保・配置・育成を行っており、現在で言うCTOとしての役割を果たしていた。薬業界の将来を見据え、自社内に研究開発組織を立ち上げその整備に努め、現代まで残る製薬企業の礎を築くことに貢献した。
また、資料をつぶさに見ると、2人の描かれ方の特徴も見えてくる。武田二郎が研究者としての忍耐と研鑽を労われている一方、塩野長次郎は研究者兼事業家として讃えられる記述が多い。
これは2人の置かれた環境の違いに起因する。武田二郎が経営参画した際、武田長兵衞商店は内林直吉という製薬事業での功労者が既にいた。一方、塩野長次郎には、父親が一度廃業届を出した製薬所を復興させた功績がある。
また、武田二郎が武田製薬の社長となったと同時に第一次大戦の休戦協定が締結され、急成長の好機が失われた一方で、塩野長次郎は自身が手がけたヂギタミンが大戦の影響で注目を集めた。似通った貢献をしても評価に違いが出る好例と言えよう。
この記事は、「薬事日報」本紙および「薬事日報 電子版」の2026年1月1日特集号‐新春随想‐に掲載された記事です。




















