河合忠(国際臨床病理センター所長・自治医科大学名誉教授)
筆者が中皮腫の存在に接したのは,1959年マイアミ大学医学部病理学教室のレジデントとして留学中であった.その後,在米中そして日本に帰国後40年間,極めて稀な疾患と信じ込んでいた.近年,中皮腫が石綿症の合併症として大きな社会問題となって,改めてその恐ろしさを再認識している.
乳幼児期の肺はピンク色の美しい臓器だ.それが成人,老人になると大気中の粉塵を吸い込み,すべての肺が黒い斑点で満たされる.塵肺症では,共通して呼吸障害を訴える.石炭鉱山での炭塵肺,石山鉱山での珪肺(けいはい),そして石綿鉱山や石綿労務者,さらに周辺住民までもが石綿肺(asbestosis)となり10数年で胸膜肥厚,中皮腫や肺癌を合併する.病理組織学的には,肺や胸膜の線維化した病巣に沈着した鉄錆色の細かい粒子として観察される.
石綿(アスベスト)は“魔の鉱物”と呼ばれたように,天然の微細な繊維質の不溶性珪酸塩で,抗張力が強く,さまざまな形に加工しやすく,熱絶縁性,耐熱性や耐腐食性に富むので,耐熱性建材として屋根や壁に広く使われてきた.1970年代に米国で鉱山労務者だけではなく周辺住民への公害の可能性が指摘され,日本政府は1975年から“管理使用措置”を取り,企業側の対応に期待した.
1986年国際労働機関(ILO)が石綿使用禁止を提案したが,わが国は,当時,年間30万トンを輸入し,その後も30年間使用し続けた結果として,現在,年間約3000名が石綿症に関連した疾病で死亡しているという.
その背景には,薬害エイズと極めて類似した政府と企業の対応が見えてくる.危険性をある程度予測しながらも,それを全面使用禁止による現状の社会生活への悪影響または不便さを懸念して,強力な対応措置をためらった結果である.
エイズの場合は血液凝固第VIII因子製剤禁止による血友病治療への影響を懸念し,石綿症では石綿以外の耐熱材が見当たらないことを懸念した.その結果として,後になって多くの患者が深刻な健康障害に悩んでいる.
広く健康への悪影響が予測された場合には,いち早い情報公開と関係者による率直な議論を経て,行政と関係企業の適切な決断の必要性を人類は学ぶべきであろう.