避難区域に翻弄‐苦悩の南相馬
東日本大震災から1年が経過した南相馬市。未だに福島第1原子力発電所から半径20km圏内の「警戒区域」と規制外区域が存在し、見えない“敵”と戦ってきた町に、復興の二文字は遠い。原発で2度の水素爆発が起き、自ら被災者となった薬剤師も、相次ぎ変更される避難指示に翻弄されながら、医療を支え続けてきた。ただ、1年が過ぎても現状を維持するのが精いっぱい。新たな一歩を踏み出すにも、人材不足の大きな壁に阻まれている。一見、普段と変わらない町並みだが、震災直後からほとんど何も変わらない。それが未曾有の放射能災害にさらされた南相馬の現実である。
南相馬市は、福島第1原発事故で半径20km圏内の「警戒区域」、半径30km圏内の「緊急時避難準備区域」(屋内退避指示区域)、年間の積算放射線量が20ミリシーベルトを超える恐れのある「計画的避難区域」「規制外区域」に地域を分断されてしまった。現在、市中心部の原町区が入る緊急時避難準備区域は解除となったが、今もなお市南部が警戒区域、西部が計画的避難区域に指定されたままだ。
旧30km圏内の原町区は、一見普通の町並みだが、住宅街に仮設住宅が点在している光景が原発被災地の立場をはっきりと浮かび上がらせる。幹線道路の国道6号線は、ひっきりなしに車が行き来する。ただ、中心部の商店街は閉まったシャッターが目立ち、JR常磐線の原ノ町駅には、昨年3月11日から立ち往生したままの特急スーパーひたち号が停車し続け、まるで時が止まっているようだ。現在も北は津波、南は高い放射線に阻まれる常磐線は、原ノ町と相馬までの往復運行中だが、車社会のこの町で乗客はほとんどいない。
さらに、大動脈の国道6号線も南へ数km走ると、警戒区域立入禁止の検問と物々しい装甲車が立ちはだかる。24時間体制で警察官が警戒に当たる、たった数m先の警戒区域外には、調剤薬局のうさぎ堂薬局原町店とドライブイン花園がある。薬局は閉鎖に追い込まれたが、ドライブインは「営業中」の看板を出して踏ん張っている。
今こそ被災地に薬剤師を‐仮設で高まる医療ニーズ
原町区で開局する薬剤師の但野一博氏は、こうした南相馬市が抱える避難区域の苦悩に直面している。経営する「調剤薬局けやき」は、警戒区域に入った楢葉店(双葉郡楢葉町)、旧緊急時避難準備区域の原町店(原町区)、規制区域外の鹿島店(鹿島区)の3店舗と見事に分かれた。そのうち、現在開けているのは原町店だけ。楢葉店と鹿島店の薬剤師は各地に避難。ようやく午後5時まで営業するようになったのは最近のことだ。70代のパート薬剤師と何とかやりくりしている。
但野氏は、原発で2度の爆発が起きた後、南相馬市のほとんどが入る半径30km圏内の屋内退避指示を受け、福島市の高湯温泉、東京と避難を続けた。ほどなく薬局の様子を見に帰る往復の日々となり、音信不通だった職員全員が集まった4月3日から原町店で調剤業務を再開した。
ところが、現実は厳しかった。住民のほとんどが避難したため患者も少なく、当時は午前中のみの営業。薬剤師も“ベテランコンビ”の2人体制で地域医療を支えてきた。但野氏は「いま最もやりたいのが鹿島店の再開だが、現状の医療を維持することだけで精いっぱい」と話す。
現在、南相馬市の人口は、約7万人から4万4000人に減少。一方で、規制区域外の鹿島区は仮設住宅の建設が進み、人口が急増するなど、医療ニーズが高まっている。しかし、肝心の薬剤師がいない。但野氏は「今こそ期限つきで、被災地に腰を据えて仕事をしてくれる薬剤師の長期ボランティアに来てほしい」と訴える。
これまで但野氏は、地域に根ざし、患者との会話を大切にしてきた。震災後、患者は激減し、処方箋枚数も2割減ったが、何とか薬局を開け続けられたのは、かかりつけの患者が避難先から原町まで薬をもらいに来てくれたおかげだった。但野氏は、「町の最前線のかかりつけ薬局の役割が問われている」と痛切に感じる。
「われわれが捨て石に」地域薬局再建へ決意
いま抱える根本的な問題は、放射線量に尽きる。「よく分からないことへの不安、恐怖が大きい。緊急時避難準備区域が解除された原町も、今後10年は若い世代が戻るのは難しいだろう」と悲観的な見方を示す。特に高齢者は、放射線に振り回され続けた疲れから、「もう線量はどうでもいい」とあきらめに近い意識という。ようやく小中学校が再開するなど、希望の光も見え始めてきたが、現実に戻ってきているのは圧倒的に50~60代の中高年者が多い。だからこそ、高齢化が進展する南相馬で医療を支える薬剤師の役割は、ますます高まっている。
但野氏が鹿島店の再開を目指すのも、「仮設住宅で暮らす避難者の健康管理ができる薬局を作りたい」と考えるからだ。「われわれが捨て石になって復興への糸口を見つけていくしかない」と不退転の決意を語る一方、「緊急時避難準備区域が解除されても何も変わらない。放射線リスクを背負った怖さは現地にいる人しか分からない」と話す実感は、ひときわ重い。
強制的に避難を迫られた南相馬の薬剤師は、ほとんど同じ苦労を抱えているが、表に出していない人が大勢いる。多くの薬局は仕方なく避難せざるを得なかったが、近隣から「なぜ戻ってこないのか」と、まるで逃げたと言わんばかりの心ない指摘もあった。それでも但野氏は言う。「地域の薬局が一生懸命頑張ったからこそ、南相馬の地域医療が支えられた」。震災から1年が経過した現在も、若い薬剤師が戻ってくる予定はない。就学を控えた子どもを抱え、「もう戻りたくない」と言う薬剤師を誰も責めることはできない。
いまは、こういう時だからこそ、本来のかかりつけ薬局の出番だと気持ちを新たにしている。同じ思いを持った薬剤師が手を結び、来るべき高齢者のモデル地区を作り上げることに邁進していく覚悟だ。
甚大な津波被害‐営農見通し立たず
忘れられがちなのは、南相馬市は津波被害も甚大であることだ。高さ18mもの津波が押し寄せた沿岸部の原町火力発電所は、未だに復旧していない。
がれき処理を終え、更地になった土地の農地復旧も見通しが立たず、放射性セシウムの影響で米の作付け断念に追い込まれた。農業を再開したところで風評被害を払拭できるか保証はない。
結局、震災後から何も変わっていないとの実感は、荒涼とした津波の被害跡地が、持って行き場のない苦悩を映し出している。