「がん消滅の罠 完全寛解の謎」で宝島社の第15回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞した岩木一麻氏。余命半年の宣告を受けた癌患者が完全寛解するという奇想天外な話から始まる医療ミステリー小説は1月に発売、すぐに話題となった。癌研究に携わった岩木氏だからこそ書けた本作には、一般の人たちが癌と向き合える社会の実現、「癌=死」という古いイメージに一石を投じたいというメッセージが隠されていた。「医療ミステリー小説で一般者への疾患啓発」に挑戦する岩木氏にその心中を聞いた。
モンシロチョウから癌研究、そして作家に
――受賞おめでとうございます。今の気持ちを率直に聞かせて下さい。
思いかけず大賞をいただけたと思っています。2次選考落ちした2015年の第13回選考に応募した作品と今回とで同じトリックを使いました。その後、1年間ミステリーの書き方を勉強しながら、第13回の応募作から大幅に書き直し、今回の作品を仕上げました。第13回選考で選考委員の方からいただいたアドバイスをしっかりと反映させ、エンドマークまで書き上げたときには、これまでのミステリーとは違う作品を作り出すことができたという自信を持つことができました。他の賞に応募しようとは全く思わなかったですね。
――小説を書こうと思ったきっかけは何ですか。
国立がん研究センターで昆虫の研究をしていてモンシロチョウから見つかった抗癌蛋白質のピエリシンの研究をきっかけに、癌研究のキャリアが始まりました。その後、放射線医学総合研究所でも癌研究を進めるうちに、「癌の医療技術を使えば、犯罪が実行可能ではないか」と思うようになったのです。
癌を主題とした本作を通じて達成したいのは、癌患者さんとそのご家族が抱える思いと、一般の人たちが抱く癌に対する漠然としたイメージとの乖離をなくしたいという思いです。癌は2人に1人が発症する身近な疾患になりましたが、患者さんやご家族は一生懸命癌について勉強し知識を得る一方、一般の方には「癌=死」という特殊なイメージが今もなお残っているような気がします。癌に対する社会の理解がまだまだ不十分だと感じます。
癌患者の方が仕事や生活をする上で不自由な環境があり、癌の発覚後に働けるのに、働きにくくなって仕事を辞めてしまうといったことも起きていると聞いています。癌という病気をミステリーの核に据えることで、例えば癌の専門書を手に取ることへの敷居が高い人たち、癌に興味がない人たちがこの作品を読んで、癌を知るきっかけになればと思いました。
――既存のミステリーとの違いは。
病気をミステリーの核に据えた小説がないとは思いませんが、癌という病気をミステリーの核に据えた作品は近年では思い浮かびませんね。海外ではアメリカのロビン・クックさんが癌を主題にした小説を書いていると記憶していますが、今回の私が書いた作品とは違いますし、オリジナリティが出せたのではないかと思っています。
あと後半部分で研究者の主人公が様々な仮説を立てて推理をするのですが、予想した結果とは全く違う結果になったときの驚きや試行錯誤する様子は、研究者としての経験に基づいて表現しました。
――治験のプロセスを説明する記述もありました。
過去に医薬品で薬害の問題が起きました。一般の人たちの中には「製薬企業や国が悪い」「医薬品開発で安全性をないがしろにしているのではないか」という不信感が未だに残っています。しかし、治験段階で有効性や安全性に関する全てのデータを収集しようと、新薬を上市するまでにものすごく時間がかかってしまう。新薬のアクセスの観点で医薬品開発の流れや承認までにどんなデータを収集しているのかをきちんと説明すれば、一般の人たちにも分かってもらえると思い、作中でも書かせていただきました。
癌患者、専門医から反響‐「分かりやすかった」
――出版前と出版後では本作に対する捉え方はどう変わりましたか。
社会からの反響がもっとも分かりやすいですね。いろいろな層の読者から「分かりやすかった」「勉強になった」という声が想像以上に多く、励みになります。癌の研究者が書いた本となると、難解で分かりづらいという先入観を持たれてしまうことや、癌の専門医の方から「内容として科学的にあり得ない」という厳しい意見も覚悟していましたから。
癌の社会的理解を引き上げるという目的を達成するためには、多くの人に読んでもらわないといけないので、大賞受賞は大きなステップになりました。ミステリー小説であるにもかかわらず、腫瘍内科の先生がブログで「健康本コーナー」に置いて欲しいという声や、19歳のタレントの方が「分かりやすいのでぜひ読んで」とツイッターでつぶやいていただいたこと、癌患者の方が「癌のアウトラインが分かるので読んでほしい」と書評を書いていただいたこと、こうした意見を見てみると所定の目標を達成できつつあるのではないかと、嬉しくなります。
――確かに分かりやすく書かれていたのが印象的でした。
投稿前に医療知識をあまり持たない方に一般的な目線で原稿をチェックしてもらう一方、医療の専門家の方に言葉の表現に間違いないかを見ていただきました。特に意味が分かりにくいような箇所については、できるだけ分かりやすくするよう心がけました。
――薬物治療の発展についてどう捉えていますか。
「すごい」の一言ですね。最近上市された免疫チェックポイント阻害剤は、効果のある人に対して何年も病気の進行を食い止めることができますし、ALK阻害剤なども遺伝子型が決まってしまえば劇的に効果を発揮する。分子生物学が発展して分子標的薬が進化していけば、「癌=死」というイメージを覆すことができると思います。
ただ、技術革新が進めば苦しんでいる患者さんを救えることができる一方、その技術が正しく使われるかが問題になります。別の誰かが技術を悪用して、犯罪で使われる可能性も考慮し、本作を出版することで一定の抑止力にしたいと考えました。例えば、癌を移植して暗殺するという犯罪も技術的にはできなくないと考えるようになっています。
今後は希少疾患のテーマも‐製薬企業には“日本発”期待
――今後求められる癌との向き合い方は。
癌という病気の重大さを受け止めつつ、生き方の一つとして受け止められるようになれば社会全体に利益が出てくると思います。今後2~3年間で癌と共生できる社会を実現できるかといえば、難しいかも知れませんが、少しずつ世の中が変わってきている気はします。30年前は、医師が患者に癌を告知しなかったのが、今では芸能人が癌発症を社会に公表し、多くの人に勇気を与えようとしています。癌に対する考え方は社会全体で確実に変わってきていますし、医療が進歩していけば、もっといい方向に進むと思います。
――製薬企業に期待したいことは。
私の立場として言えることはないですが、海外の製薬企業が国内から研究開発拠点を撤退し、日本の製薬企業も研究所を海外移転するのを見ていると、日本人の患者のための新薬開発で不安を感じるところがあります。新規抗癌剤のグローバル開発が進められていますが、日本人と他の人種では効果の現れ方が違うし、分子標的薬に関して言えば遺伝子発現頻度が異なることから、国内製薬企業には日本人患者に向けた新薬開発をどうか頑張っていただきたい。国もサポートする環境にしていかないといけないと感じます。
――いつ小説を書いていますか、気づきやアイデアはどう生み出していますか。
平日は仕事をしていますので、土日で小説を書きますね。天気が良ければ外出して執筆し、執筆に行き詰まると飲食店に行くなど場所は工夫しています。アイデアの着想は、現在医療系出版社で働いており、多くの医療情報に触れられる点からそれまで気づかなかったアイデアが突然思い浮かぶことがあります。そのときには、忘れないようにメモを取ったりしています。
――今後書いていきたい作品は。
癌についてたくさん書きたいことはありますが、ミステリー作家の立場としては、いろいろな作品にチャレンジしていくべきだと思っています。癌に限らず、小説を介して患者と非患者に存在する乖離を解消し、社会が抱えている問題を解決したいですね。例えば、患者数が少ない希少疾患のことも書いていきたい。専門書を書くのではなく、その手前にいる読者が疾患を勉強したいと思うきっかけとなる小説を書くことが自分の役割だと認識しています。
――医師、薬剤師、製薬企業の方にメッセージを。
皆さんそれぞれの立場で頑張っていると思いますので、そういう方が仕事を取り組みやすい環境、社会全体で病気を受け止めやすい環境をつくっていくために、小説を書くことで少しでも貢献したいと思います。皆さんもぜひ頑張っていただきたいし、私も頑張りたい。