はじめに
明治時代の初期にヨーロッパのプロイセン王国から遠い東洋の端に位置する日本にはるばるやって来た1人の薬剤師がいた。この人の名はニーウェルト。1872(明治5)年11月に27歳で日本に来て、当時の官立医学校附属医院(現東京大学医学部附属病院)の薬局で調剤や薬品管理などを教えていた。言わば、病院薬剤師の始まりだ。
ところが、3年間わが国にいたにも拘わらず、ニーウェルトに関する史料などがほとんどない。例えば、名前についてもニーウェルトまたはNiewerthという仮名かアルファベットのみの表記である。『東京大学百年史』(1987年)や根本曾代子著『日本の薬学-東京大学薬学部前史』(81年)においても姓名は示されていない。
ニーウェルトについて研究している西川隆氏(日本薬史学会名誉会員)によると、フルネームが不明、顔写真がない、生年月日が不明、日本で一緒に働いていた軍医のミュルレルやホフマンのような履歴が不明であり、ニーウェルトに関しては情報が非常に少ないと指摘している(※)
ニーウェルトのフルネームが判明
ところが、そのニーウェルトに関して新たに事実が見つかった。ニーウェルトがドイツ北部にあるロストックという中世からの商業都市に住んでいたということから、グーグルのドイツ版でNiewerth、Rostock、Apotheker、Japanなどのキーワードを入力して検索した。
その結果、ロストック市の2007年の都市計画の中にニーウェルトの姓名が記載されていることが分かった。市内の有名な通り(イノアー・マルクト13番地)に昔からのビル(写真1)の1階に1542年から開局している市営薬局(Ratsapotheke)について書かれてあり、この伝統ある薬局が何人かの経営者に買い取られていた変遷が明記されている。
その中に「1877年10月21日、市の薬剤師Gottlieb Richard Niewerthが買い上げた」と書かれてあり、初めてフルネームが分かった(写真2)。Richard は英語読みではリチャードとなるが、ドイツ語ではリヒャルトと読む。
77年にニーウェルトが買い上げたと記されているが、ニーウェルトが日本での3年間の契約が満了になったのは75(明治8)年12月24日であることは同年12月28日付の国立公文書館の公文録に明確に記載されている。このことから、ニーウェルトはその後にドイツに帰国。日本での月給が薬局教員として300円と当時としては高額であり、これらをもとにしてロストックの有名な薬局を購入したのではないかと思われる。ちなみに、参議の大久保利通の月給が当時500円(梅渓昇:お雇い外国人、講談社学術文庫・2007.p238)だったという。
ニーウェルトが招聘された背景
ニーウェルトが日本に来ることになったきっかけは、軍医で外科医のミュルレルがプロイセン流の西洋医学を日本の医学生に教えるため同僚の内科医ホフマンと共に71(明治4)年8月に日本に着任してからである。
当時の明治政府は、文明開化の一環として各分野について導入先の先進国を選び、当該国の専門家を日本に招聘し、指導してもらう方針を取った。いわゆるお雇い外国人制である。医学領域においては、英国流にするかドイツ流にするかで政府内ではかなり論争していた。
結局、医学校取調御用掛の相良知安や宣教師で政府の顧問であったフルベッキなどはドイツ医学が現在のところ世界の最先端であることを説明し説得した結果、69(明治2)年6月にドイツ医学を導入することが決定した。そして、翌年2月、北ドイツ連邦政府(プロセイン国が盟主)との契約をプロセイン国公使のフォン・ブラントと取り交わし、ミュルレルは文部卿の次に位置され医学教育の改革の権限も与えられた。そして医学教育を予科3年、本科5年とした。
そのような立場のミュルレルが当時の医院薬局を見たところ、薬品管理はずさんで棚に並べてある薬品にラベルが貼ってないか、貼ってあってもでたらめ、調剤はいずれも滅茶苦茶、処方箋を正しく読める薬剤師はいなかった、とミュルレルは手記「Tokio-Igaku」(日本語訳:石橋長英ら『東京-医学』、国際医学協会・1975.p67)にありのままに書いているほど薬局として機能していなかった。
ニーウェルトによる医院薬局での活動と当時の薬事状況
そこで、ミュルレルは本国並みの薬局や薬剤師にしなければならないと考え、当時ロストックに住んでいた薬剤師ニーウェルトを招聘し、医院の薬局を立て直しすべきと決意した。
ミュルレルの手記には「この薬剤師は3年間という短い期間に日本における最初の本格的な薬局を作り上げ、同時に理論と実際の両面にわたりかなり多くの助手たちを養成した。また、薬剤の質を良くするために慎重な試験を行い、信用のあるドイツ商社から薬品を直輸入するなどいろいろと彼は気を配った」とその仕事ぶりを評価している。
しかし、ニーウェルトがわが国に来た72(明治5)年の頃では、薬剤師という職業がまだ確立されていなかった。当時の医院薬局は医局が管理していたので、薬品の管理も雑然としていて薬局としての機能がなっていなかった。漢方薬を治療に使っていた漢方医の立場から薬局に出入りしていた。西洋薬も一部では用いていたはずであるが、劇薬や毒薬などの管理もできていなかったのではないか。
ニーウェルトは、ドイツで実践していた薬剤師としての仕事を助手たちに一から教え、患者に投与する処方薬や薬品を調剤や管理面から適正に指導してわが国におけるドイツ式の近代的な病院薬局を初めて築いたのである。ミュルレルがドイツにいる一介の薬剤師をわざわざ日本へ呼び寄せるくらいであるから、よほど優秀な薬剤師だったに違いない。ニーウェルトは日本に来た以上、真摯に薬剤師業務に取り組み、ミュルレルの期待に十分に応えたと考える。
一方、わが国で薬剤師制度が始まるのは、ずっと後になり、89(明治22)年3月に「薬品営業並薬品取扱規則(通称:薬律)」が制定されてからである。それまでは、特段の資格のない人たちが見よう見まねで調剤などを行っていたので、文明開化に伴い諸外国のような「薬学」の存在が必要と関係者は考えた。この点は、ミュルレルがわが国にもドイツ本国と同様に医学と共に薬学、薬剤師の必要性について明治政府に建白書を提出したことも頷けよう。
また、長崎に輸入された薬品に贋造薬など不正・不良薬品が見つかり、検査をしたオランダ人技師のゲールツが73(明治6)年1月に長崎税関に報告していることも薬学の重要性を認識させたものと思われる。製薬学科(予科2年、本科3年)が開校したのは73年(明治6)年9月で20人が入学した。
ニーウェルトによる植物関係の論文の発見
別の調査から、ニーウェルトはドイツの学術雑誌「ドイツ人社会のための東アジアの自然・民俗学」に、8月の江戸から日光までの日本の植物を観察した論文を3ページほどにわたって書いている(Niewerth R. Eine botanishe Excursion im Monat August von Yedo nach Niko. 1873-76;Heft 7:9-11)(写真3)
従来言われてきた薬局業務のことばかりではなく、植物にも詳しいことが分かった。この論文では、見つけた多数の植物の学名をわざわざ仮名でカラスウリ、ヘチマなどとも示し、植物の生態について細かく論じていることから植物学に造詣が深いことと思われた。この点はさらに調査する必要がある。
おわりに
このように、ニーウェルトは明治初期に日本に招聘され官立の医学校附属医院薬局において3年間にわたり日本で薬剤師業務を指導したが、わが国ではほとんど彼の情報が見つからない。しかし、ドイツにおける情報源から様々な事実を得ることができ、特に姓名が分かったことから、今後は正確にドイツでの情報収集が可能になる。
また、植物学関係にも学術的な活動をしていたことも判明した。ニーウェルトの動向についてさらに調べていきたい。なお、上述した内容の一部は2025年11月に奈良で行われた第126回日本医史学会学術大会にて発表した。
参考文献
(※)西川隆.東京帝国大学医学部薬学科.薬事日報社 ; 2020 , p13-14.























