「患者中心思考」(ペイシェント・セントリシティ)は医療のイノベーションに欠かせない要素になっている。もはや理念にとどまらない。創薬をはじめ、営業、安全監視、地域医療など広く実践段階に入っている。
創薬におけるその必要性は、中でも新医薬品に占める希少疾病用医薬品が増加傾向にあることが挙げられる。審査区分で見ると、2022年に承認された新規有効成分の3割超が希少疾病薬だ(医薬産業政策研究所まとめ)。希少疾病は医師の診療経験が限られ、患者実態もよく知られていないケースもある。ゆえに患者から得る知見は有用というわけだ。
希少疾病薬メーカーの米ウルトラジェニクスを例に挙げる。来日したエミール・カキスCEOは、対象疾患は医師も十分知らない疾患ゆえ「患者の声を聞くことが重要だ」と述べ、患者の体験に基づく知見を生かして創薬研究に取り組み、新薬を創出してきたと明かした。同社は、患者と家族を支援する「レア・ブート・キャンプ」を組織し、専門家と交流する場も作っている。そこから臨床研究に進展したケースもあるという。
希少疾病に限らずとも、同様の取り組みは広がりつつある。武田薬品、第一三共、中外製薬でも研究開発の早期から患者の声を取り入れる試みが始まった。開発が進んでから患者が望む剤形や投与法に変えるのは難しいからだ。
エーザイも実践企業の一つで、社員が就業時間の1%を患者と共に過ごす「hhc活動」を行っている。活動で得た知見から新たな剤形が生まれたことは知られている。
今月の入社式での内藤晴夫CEOのあいさつは、定款にある「hhc理念」の活動姿勢を表している。「世界に先駆けてアルツハイマー病(AD)治療薬を発売して以来25年間、認知症当事者とご家族から『次の薬はいつ出せますか』と問われ続け、その真剣な表情と光る眼差しを一時も忘れたことはありません」。その思いがあったからこそ、困難を乗り越え、早期ADの新薬を創出できたのではないか。同社は今月に、大改修した筑波研究所に患者との交流ゾーンを設けた。
「患者中心思考」が理念から実践に転化したのは、IT技術の進化によるところも大きい。臨床試験、実臨床において患者のモバイルツールを起点に、来院せずに医療者とデータを含めやりとりでき、有力な手法になりつつある。
地域医療において、コロナ禍で対面診察がままならず遠隔医療システムを活用した医師は、施設を中心にした外来という概念が「非入院」に変わると予感したという。
このように、患者を中心に描く医療を実現できる環境が整いつつある。これは医療のイノベーションである。イノベーションは企業の利益のように語られることがあるが、それは違う。患者に幸福をもたらしてこそであることを、今一度確認しておきたい。