1972年(昭和47年)、中央社会保険医療協議会において調剤基本料の新設を答申、同年施行され、処方箋受付1回につき80円が薬局に支払われることになった。翌年の73年には、当時の日本薬剤師会会長だった石館守三氏と日本医師会会長の武見太郎氏による医薬分業をめぐるトップ会談が実現。74年に日医は「5年後の医薬分業を実施したい」と表明した。
その一方で75年、自治体による薬局開設の不許可処分が違憲であるとの最高裁判決が言い渡された。いわゆる薬局適配条例が違憲とされ、薬事法の一部改正に至る。結果、門前に立ち並ぶ原風景にもつながった。
さて、分業元年とされる74年、処方箋料が何と二度改定され、6点から最終的には50点へと大幅アップ、処方箋発行の機運は高まった。ただ、資料によると院外処方箋発行率、いわゆる分業率は全国平均0.64%、1%にも満たない状況だった。75年度に、ようやく1%台という状況。二桁台に届くのは87年度に入ってからだった。
分業をめぐり医師会と攻防が続いていた中、日医会長と直接話をつけた石館会長は、75年当時、薬事日報のインタビューで語っている(「医薬分業の歴史」より)
「分業については従来からいっているように単に業務の分離ではない。まず、医療担当者としての意識をもつ、つまり意識改革を強調している。その辺りを間違えると困る。いま薬剤師は国民から信頼されるかどうかの重要な分かれ目にいることをよく認識すべきだ。分業を実施した結果、国民に不安や不便を与えるようでは困る。過渡期において国民から“不便だ”“高くなった”など不満が出るかもしれないが、それをわれわれの力で何とか納得してもらうようにしていかなければならない。国民本位の分業にもっていきたい」
その後、いわゆる第二薬局問題などもあり、薬局は「構造的、機能的、経済的に医療機関から独立していることを本旨とすべき」と薬務局長通知が発せられた。療養担当規則も一部改正され、明確に薬局と医療機関の独立性に関しての留意事項が盛り込まれた。
ここに来て、先の規制改革会議の公開ディスカッションを機に、門前どころか門内開設できるように規制改革をすべき、経営の独立性は処罰の強化などで確保できると、至極短絡的に「規制改革」が求められた。
また、日本経済団体連合会は、一般薬販売で薬剤師等の設置要件緩和を求めている。薬剤師等の人員確保が難しいため店舗拡大の妨げ(規制)を外せと、いつもの主張だ。
時代と共に何を「規制」と捉えるかは変化する。しかし、薬局として、なぜ、その規制があるのか、改めて理解する必要がある。“石館会長の発言”から40年も経ち、未だ過渡期というのでは情けない。“国民本位”の分業に向け納得を得る行動が必須。