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『平成の言霊』~先人の志に学ぶ~
シリーズ第2弾「私論 医薬分業」

[執筆]水野 睦郎(水野調剤薬局)
[連載期間]1991(平成3)年10月31~12月21日
この連載の締めくくりに水野氏は、「医薬分業の言葉を止めることを検討して欲しい」と語る。その真意とは・・・
院外処方箋発行率は89年に10%台には乗ったものの、同連載がされた1991(平成3)年の時点では12.8%とその伸びは僅かであった。
日本薬剤師会では90年には「基準薬局」制度を発足させ、各薬局の処方箋応需機能の充実を求めた。
また、各種の行政施策により、90年代半ば以降、分業に係る数値は急伸することになったが、その現場は、国民不在の処方箋獲得に“奔走”し始めた時代とも言えよう。
そのなかにあっても、「国民の利益」に真っ直ぐ向き合う水野氏は、プロフェッションとしての役割を、薬の過大な収益性の抑え込みにある、と語る。
さらに、休日・夜間の応需体制のあり方や地域貢献が可能な薬局規模の提案、水野薬局でいち早く取り組んだシステム開発で貫く薬剤師業務の本質など、薬局サービスのあるべき姿を示す。
「私論」では、その真の姿が地域住民に伝わらない、そして夢のない業権意識の『分業』改め、『地域薬剤サービス』を提案している。
収載一覧
1)分業の進展度と目標
2)分業社会の開局義務
3)待機する薬剤師
4)地域社会をクリーンにする分業制
5)薬局の薬剤備蓄
6)地域の薬剤備蓄
7)高齢者のOTC薬
8)処方せんの様式
9)薬の収益性の抑制
10)薬局の規模
11)投薬と処方の違い
12)データと情報、システム評価
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平成の言霊シリーズ制作意図
平成の言霊 ~先人の志に学ぶ~ ― 連載シリーズ 復刻版(電子版)―
薬事日報は2018年に創刊75周年を迎えました。2019年には「平成」から「令和」へと年号も改まり、わが国も「人生100年時代」に向けた新たな門出の時を迎えています。薬事日報も、「一世紀企業」に向けた新たな一歩を踏み出しております。
薬業界に目を転じると、近年の超高齢社会が進展するなかで、人口、なかでも生産人口の減少が急激に進むという世界的にも希な状況を迎えています。かつての経済成長の時代とは大きく異なる難しい経済運営のなかで、わが国独自の国民皆保険制度の持続・継続は世界的に見ても大きな挑戦です。この厳しい医療財政のなか医療費適正化、つまり「医療費の削減」が推し進められ、なかでも“くすり”をターゲットにした施策が様々に展開されています。

医薬分業元年といわれる昭和49(1974)年、院外処方箋発行率は僅かに0.6%であったが、いまでは73%に達し、80%を超す地域も増えつつあります。当初想定した“完全分業”は、見事に達成されたといえるでしょう。しかし、“数値目標”に近づいた頃から、調剤を巡る様々な不祥事や不正請求等の事件などが発覚、次第に薬局・薬剤師への“バッシング”の声が上がるようになりました。近年では、厳しい意見や指摘に留まらず、薬剤師や薬局の“不要論”までが飛び出る始末。本当にこれまで進んできた道のりは正しかったのでしょうか。これが目指した“医薬分業”の姿なのでしょうか。
医師会や薬剤師会の歴史を辿ると、薬剤師会という組織の歴史は“分業”確立に向けた活動そのものだったことがうかがわれます。
明治7(1874)年に政府が公布した「医制」により薬舗主(後の薬剤師)に調剤(当時は調薬)権を賦与し、医薬分業が原則的に承認されました。その後、明治22(1889)年、薬剤師という名称と職能が「薬品営業並薬品取扱規則(法律第10号)」により規定されました。しかし、“薬剤師が少なかった”こともあり、医師の調剤を認める除外規定も盛り込まれていました。これに反発した薬剤師たちは、4年後の明治26(1893)年、医師たちに先駆けて全国統一団体である「日本薬剤師会」を創設。医師達も遅れは取ったものの、「大日本医師会」を設立は大正2(1913)年に設立し、“分業”を巡る政治闘争は激化していきました。
「日本医師会通史」(日本医師会)に、医師の全国組織が発足した背景について次のような一文があります。
「(略)大きなきっかけには、薬剤師が医薬分業の実施を求めて、いち早く明治26年に全国組織の日本薬剤師会をつくり、強制医薬分業を定める法案の提出を働きかける政治運動を進めていたことがあった。この動きに刺激されて、対抗のために組織づくりを急ごうという機運が、開業医の間に盛り上がった」
当時の医療報酬体制などを背景に、いわば“くすりの争奪戦”が医師と薬剤師との間で、激しく繰り広げられたことがうかがえます。

その後、医師会の政治活動、団体としての勢いは増し、明治39(1906)年には医師の身分法である「医師法」が成立。一方の「薬剤師法」は大正14(1925)年に成立と大きく後れをとったのでした。
さて、改めて“医薬分業”が動き出したのは太平洋戦争後、アメリカGHQが日本を実質支配下に置いた頃からといえます。昭和26(1951)年、いわゆる「医薬分業法」が成立・公布されるものの、昭和29(1954)年には医師会が医薬分業反対のデモ行進を断行。迎える薬剤師会も「医薬分業貫徹全国薬剤師大会」の開催、デモ行進と、両者一歩も引かない状況が続きました。
薬事日報第10479号(2008年1月21日)掲載の寄稿「水野睦郎先生を偲んで~秋葉保次~」によれば、「昭和30年代頃から何度もあった白衣の分業デモ。その先頭に常に彼がいて、国会にも乱入した。このことは、初七日の法要で菅沼正二氏が当時の情景を彷彿とさせるように生き生き語ってくれた。それが青年行動隊の活躍のスタートで、第2代の隊長も務めた」とあります。
「彼」とは故水野睦郎氏であり、東大病院前に「水野調剤薬局」を開設し、先駆的な薬局づくりに取り組み、薬剤師界に多くの“門下生”を排出してきた人物です。“分業”を牽引し、薬局・薬剤師のあるべき姿を追求しつつ、東京薬科大学の理事長という重責を二度も担うなど、薬学教育にも注力され、薬のプロフェッショナルとしての薬剤師育成にも情熱を傾けました。
水野氏は執筆活動にも熱心で、医薬分業の黎明期より「欧州の薬剤師と薬局」(1970年8月、薬業時報社)、「調剤実務必携―その基本と取組み方」(1979年8月、薬業時報社)、「薬のプロフェッション―高齢社会の要求―」(1989年11月、薬事日報社)などの著作や、「薬事日報」への多くの寄稿等を介して薬局・薬剤師の業務・職能のあるべき姿を発信してきました。4分ノ3世紀という永きにわたり薬剤師、薬局と伴に歩んできた「薬事日報」には、この“水野節・水野理論”のほか、「上田の分業」の始祖といえる小林富治郎氏らを含め多くの偉人が登場しています。
“分業”が急進した「平成」の終焉に当たり、水野、小林氏らの小紙への連載記事を復刻することとしました。薬剤師職能、薬局のあり方と将来への期待、あるいは“黎明期”における不安や憂いをも交えた熱い思い、その錆びつくことのない言霊を、分業バッシングの今だからこそ、貴方にお届けします。