「薬屋」の歴史を読み解く
言うまでもなく、製薬は研究開発が要となり、高い技術力が要求される、何より国民の健康増進に直結する重要な産業である。私がそんな製薬産業の歴史に興味を抱いたのは、大学院修士課程の時だった。日本の製薬業界において、M&Aがどのような意図のもとで行われてきたかについて調査していたところ、日本の著名な製薬企業の多くが長い歴史を持っていることを知った。
特に「道修町の御三家」と称された田辺、武田、塩野義は、薬種問屋から製薬企業に発展したことを知り、驚いた。薬種問屋と言えば、明治以前から存在する流通業者であり、当時の私の認識では時代劇の登場人物であった。徒弟制度の下、前垂れをつけた「丁稚(でっち)」が使い走りをさせられ、長期の奉公に耐え抜いた一部が昇進し、別家を許される。
そんな商家が、いかにして研究開発能力を有するハイテク企業へと成長していったのか。調査を進めたところ、御三家は明治・大正期に大きく発展し、製薬企業の礎を築いたことが分かった。そこで関心を持ったのは、いかなる人物がいかなる判断を下し、自社の方向性を定めて発展させるに至ったかであった。
企業家史という視点
私はリーダーの活動を分析する上で、彼らがどのような思惑のもとで意思決定を行っていたかを重視している。「薬業界」の環境自体は全ての薬業者に適用されるが、どのように行動するかは、各経営者の主観に基づく認識によって異なるからだ。その観点のもとで各社社史、経営者の伝記、追想および業界誌を読むと、多くの興味深い記述が発見できる。
十二代田邊五兵衛の例
例えば、1871年に田邊五兵衛商店(現田辺三菱製薬)の12代目当主を襲名した十二代田邊五兵衛は、極めて潔癖な性格であったと社史に記述されている。彼は当時の薬品の真偽鑑定が必ずしも合理的に行われておらず、取引される薬に含まれる有効成分の量が不揃いであり、砂の付着や水分の多少で計量にも問題が発生し、その上取り扱いが煩雑である従来の和漢薬取引の将来性に強い疑問を抱いていたと言われる。
田邊五兵衛商店の創業は江戸時代、1678(延宝6)年に初代田邊屋五兵衛が、大阪土佐堀で合薬の振出薬「たなべや薬」の製造販売を目的として開業した老舗である。言うなれば、自分の商店の礎を築いた商品の品質検査に問題意識を抱いていたということだ。
十二代田邊五兵衛の潔癖さは、外国商館との取引において信頼を勝ち取るきっかけとなるが、その一方で大胆な決断も下している。当主になってから6年後の1877年、彼は土蔵を改造して製薬場を造り、弟の元三郎に薬品製造を着手させたのだ。
内務省の補助を受けて大日本製薬会社が設立されたのが83年であり、国内における薬品および製法の基準となる日本薬局方が制定され、製薬業を免許制としたのが86年であることを考えると、77年の製薬場設置は先駆的な活動と言える。
その後、始まったばかりの製薬事業は2度の火災に見舞われ、元三郎を失う結果となるのだが、十二代田邊五兵衛は2度目の事故の後に、北区南同心町に木造製薬場を建設して再起を図っている。こうした事業革新への執念、あるいは、どのような犠牲を払っても変革を成し遂げねばならないという危機感が資料から伝わってくるのである。
五代武田長兵衛の例
1904年、武田長兵衛商店(現武田薬品工業)の5代目当主を襲名した五代武田長兵衛の資料には、十二代田邊五兵衛にあったような苛烈さを感じさせる記述は見当たらない。代わりに、次代を託されたという責任感と、激動の時代に適応せねばという気概が見て取れる。
五代武田長兵衛の働き始めた頃の様子が資料にある。彼は小学校を卒業した後、自商店の店員とともに製品の荷揃えや荷づくりを手伝うこととなった。丁稚奉公を含む伝統的な徒弟制度に、少なくとも形式的には組み込まれたのである。
また、彼は第一次世界大戦がもたらした医薬品欠乏と国産奨励の流れを受けて14年、武田試験部内に武田研究部を設立した。翌年には武田製薬所を創設して、日本薬局方薬品の製造と新薬研究を推進する。
この時の五代武田長兵衛の心情についても資料に記述がある。高品質な医薬品を製造して安定供給を達成することで病人を救うことこそ本懐であり、利益は二の次であると勇ましく胸を張ったかと思えば、事業の進捗を見て紙幣が燃えていると洩らす一面もある。自社が生き残るには製薬事業を強化するしかないという強い信念と、そうは言っても損失の著しさに鼻白むという、悩めるリーダーとしての五代武田長兵衛がそこには見られる。
二代塩野義三郎の例
1920年、塩野義三郎商店(現塩野義製薬)の2代目当主を襲名した二代塩野義三郎もまた興味深い人物である。伝記には学生時代の思い出としてボート部に所属したことが書かれているが、そこに、試験前日にボートの練習に出かけ、空腹に負けて部員たちとうどんを食べ、夜10時に帰宅した挙句翌日の試験が散々な結果に終わったというエピソードが紹介されている。
経営者の伝記に書かれる若き日の様子というのは、大体が活発さやリーダーシップをアピールする場合が多い。こうした勢い余って失敗する話は少ないだろう。
1902(明治35)年、大阪高等商業学校を卒業した二代塩野義三郎は塩野義三郎商店の店務見習いとして働き始めた。教育を受けていても実際の駆け引きは未経験だったので、引っかけられはしないかと常に心配していたことが伝記に書かれており、心配した通り仲買人に翻弄される様まで記述されている。
また、二代塩野義三郎は襲名後に組織改革を行うが、その中に徒弟制度の撤廃および学卒者の採用が含まれていた。この時、丁稚奉公を経て商店の幹部となった従業員からの反発があった。厳しい修行を経た彼らのキャリアを考えれば無理からぬことであろう。
そうした彼らに対し、まず二代塩野義三郎は反対する従業員の息子が学校に通っていることに言及した。そして、このまま徒弟制度を継続するなら、わが社は君たちの子供を雇えない、退学して丁稚になるなら話は別だが、と呼びかけた。遠回しに、学卒者を雇えないままで良いのか、と指摘したのであろう。
幹部ではなく、見習い店員としてスタートした二代塩野義三郎だからこそできた説得方法と言える。資料からは、こうした人間性に関するエピソードがユーモア混じりに紹介されている。
さらに研究を深めるために
もちろん、今回取り上げた3者以外にも興味深い薬業界の経営者は多い。咳をすると道修町中が飛び上がったという逸話が残されている七代小野市兵衛(小野薬品工業)、また道修町以外に目を向ければ、薬種問屋でなく製薬企業として自社をスタートさせ、全国にチェーンストアを展開した福島県出身の星一(星製薬)、自身の家名や地域での名声を重視して短期的な利益でなく社会貢献活動を続けた倉敷の林源十郎(エバルス)など、特徴的な人々が存在する。
そうしたケースをつぶさに見て、彼らの共通点や相違点を明らかにし、彼らが活躍した時代について考察することによって、これからの薬業界においてどのような資質を持った経営者が求められるかについての示唆を導出できると考えている。そのためにも、さらに事例を探し出し、比較研究を進めることとしたい。
この記事は、「薬事日報」本紙および「薬事日報 電子版」の2025年1月1日特集号‐新春随想‐に掲載された記事です。