
魚豊(うおと)さんによる漫画作品「チ。―地球の運動について」をご存じでしょうか。同作品は、15世紀ヨーロッパをモデルにした架空の世界を舞台に、地動説を追い求める者たちの物語を描いています。教会の権威に支配された社会において、地動説は教義に反する思想であり、研究するだけでも異端者として重い刑罰を受けるという物語の設定は、フィクションでありながらも、史実における地動説とキリスト教の歴史的対立をリアルに描いています。
物語の登場人物たちは、命を懸けて「地球が動いている」という科学モデルを探究しようとします。しかし、その探求の動機は必ずしも観測事実と地動説理論が一致していたからではありません。実際の地動説は、提唱された当初において、天動説よりも観測の精度が劣っていました。それでも地動説が「科学的」だと考えられた理由は、天動説と比べてより簡潔で、予測力のある理論体系として、進化する可能性を秘めていたからです。
進化する可能性、あるいは訂正可能性という視点は、現代医学における様々な仮説にも適用できます。例えば、アルツハイマー病因仮説にアミロイド仮説と呼ばれる理論があります(PMID:27025652)。同仮説によると、脳内に沈着するアミロイドβ蛋白質の蓄積が神経変性を引き起こし、アルツハイマー病の発症をもたらすことになります。近年では、抗アミロイドβ抗体薬など、アミロイド仮説を根拠として様々なアルツハイマー病治療薬が開発されてきました。
しかし、2002年~12年にかけて実施された413件のランダム化比較試験のうち、医薬品として承認に至った薬剤は0.4%に過ぎません(PMID:25024750)。このことはまた、アルツハイマー病に対する病因仮説が部分的にしか妥当していない可能性を示唆しています。
「チ。―地球の運動について」の登場人物たちの心情を通じて示唆されるように、科学とは信じることではなく、問い続けることです。医学における病因仮説の科学性もまた、その仮説が絶えず問い直されている限りにおいて維持されることでしょう。しかし、科学的な正しさは常に相対的であり、実証的根拠や観察結果(いわゆるエビデンス)と共に信頼度が変化することに留意すべきです。科学とは絶対的な真理の体系ではなく、不断に自己修正を重ねる営みに他なりません。