第55回日本薬剤師会学術大会
2011年3月11日の東日本大震災から11年が経過した。被災地の健康支援や生活環境の改善に薬剤師が力を発揮し、全国各地での震災対応に向けた対策を考える上で大きな教訓にもなった。この10年間における宮城県薬剤師会の取り組みを写真で紹介していく。

避難所の人たちに必要な薬を届け、服薬時の注意点などの説明を行う
宮城県薬は震災から2日後の3月13日、県庁近隣にある生出泉太郎会長(当時)の薬局に緊急の対策本部を立ち上げ、情報収集を中心に対応を開始した。県と打ち合わせし、緊急通行車両の申請、支援薬剤師の募集、集積所での医薬品の仕分け、救護所や避難所での薬剤師業務など、県と薬剤師会との間で取り交わされている協定書に基づく業務を実施した。
日本薬剤師会の災害対策本部に状況報告と支援要請を行い、全国から支援薬剤師が集まり、その数は4298人に上った。支援薬剤師の支援日数や経験、技能を配慮し、各避難所で必要とされる薬剤師を派遣するコーディネート業務は県薬の役割だ。特に壊滅的な被害を受けた南三陸、女川、石巻には重点的に薬剤師を配置し、支援活動を行った。
想定を超える規模の大災害に当初策定したマニュアルや災害協定に基づく情報交換、指揮命令系統がうまく機能しなかったが、全国から膨大な数の薬剤師が救援に駆けつけてくれたことで、対応できた。
県外から搬入された支援物資を品目ごとに集める物資集積所も設置した。3月17日時点で食品支援倉庫、衣類支援倉庫、生活用品支援倉庫、暖房支援倉庫の4倉庫を確保し、医薬品等の保管・管理、医薬品等の払い出し、不足医薬品の手配、避難所向け救護医薬品セットの作成・供給を行った。
医薬品供給では、避難所へのOTC医薬品リストを作成し、当時の避難者12万人に4000セットを県で購入してもらい配布した。「必ず薬剤師の手で」を基本に、第1類医薬品は文書をもっての情報提供が必要であったため、文書を印刷・添付により配布した。

医薬品等の保管・管理、払い出し、不足の手配などを行った

避難所を回り薬剤を患者に手渡し‐爪痕残る被災地
仮設薬局も整備
医療機関も被災したために設置された仮設診療所。薬剤師は棚を作り、そこに薬を並べて医師との連携のもと、避難者に医薬品使用の助言を行った。
災害時には患者が服用している薬が手元にない場合があるため、薬剤師が服用している医薬品に関する情報を聴取し、処方された医薬品に近い薬効を持つ医薬品があれば医師にそれを推奨した。また、医師が処方箋に書いた薬剤がなくても後発品が入手できている場合は後発品を提案することも行った。
避難所となっている学校の体育館などに医師と一緒に巡回し、その場で処方された薬剤を調剤し、患者に手渡すなどの支援を行った。




被害を受けた県薬会館

説明を受ける薬剤師班(救護)
震災から150日経過した段階には、徐々に全面的な支援から部分的な支援に変わるなど復興が進むようになった。そして10月9日には、江陽グランドホテルで「東日本大震災復興祈念式典」を開催。多くの関係者が詰めかけた。
仮設診療所が整備され、復興のための拠点薬局も整備されることとなった。町民9932人中死者575人に上った女川町。町内の医療機関の被害は甚大で、女川町立病院は16mの高台にあったにも関わらず、1階の天井近くまで浸水したという。町内4薬局全てが壊滅した。
同7月に女川町から特例で会営薬局の開設が可能になったとの知らせが入った。医療機関の敷地に薬局の開設は認められないが、町内の大部分が地盤沈下し、土地の嵩上げ工事が終わるまでは建築許可が下りないため、女川の地が復興するまで公共団体が開設するという条件付きで許可が下りた。
南三陸町も11薬局のうち10薬局が津波で流出した。総合体育館ベイサイドアリーナの駐車場内に公立志津川病院の仮設診療所があり、すぐ近くで薬がもらえる地域医療の復興のための拠点薬局として「宮城県薬会営志津川薬局」が同8月に開設された。

江陽グランドホテルで行われた「東日本大震災復興祈念式典」


条件付きで開設された女川薬局
