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鎌倉について‐作家 高田崇史

2015年1月6日 (火)

作家 高田崇史

作家 高田崇史

 昨年は新シリーズ『神の時空』のうち、源氏滅亡に関しての「鎌倉の地龍」、ヤマトタケルに関しての「倭の水霊」、丑の刻参りや宇治の橋姫に関しての「貴船の沢鬼」と三冊、何とか書き下ろすことができました。新年を迎えて初詣に行かれた方もいらっしゃると思うので、その中の一冊、『神の時空』「鎌倉の地龍」から、少しそんな話でも。

若宮大路の段葛‐「安産祈願」か頼朝の「悲願」か

 鎌倉と言えば、何といっても鶴岡八幡宮でしょう。鎌倉駅から若宮大路に向かえば、すぐにあの有名な段葛の道が見えてきます。若宮大路の中心を、周囲の道より一段高く走るこの段葛は、春ともなれば鎌倉有数の桜並木の道となり、大勢の人出で賑わいます。

 そしてこの道は、正室である北条政子の安産を祈願し、源頼朝が命じて造成させたと言われています。

 しかし、その一方でこんな話があります。鎌倉時代後期の史書である『吾妻鏡』によれば、この段葛造成は長い間、頼朝公の悲願であったというのです。ということは、単なる安産祈願というわけではなさそうです。では一体、どのような「悲願」だったのでしょうか。

 また我々は、頼朝が鎌倉に幕府を置いたのは、鎌倉の地が「三方を山、一方を海で囲まれ、攻めるに難く守りに易い、天然要害の地」であったからと教わってきました。

 ところが日本の戦乱の歴史を眺めてみますと、そのような土地に都を置いた人物は、頼朝の他にいないのです。奈良も京も大阪も江戸も、どれを見てもそんな地形ではありません。全て、大きな港を持つ平地です(遠い昔は、奈良や大阪には大きな川が入り込んでいましたし、京都には丹後という一大港があります)

 しかも「攻めるに難く守るに易い」はずの鎌倉は新田義貞によって、海岸線からあっさり攻め滅ぼされてしまいました。これは一体、どういうことでしょう。本当にそんな理由で、頼朝は鎌倉に幕府を置いたのでしょうか?

「住みづらい土地」の工夫

 実は、その理由と、先ほどの段葛の「悲願」には共通項があるのです。

 それは、当時の鎌倉は「非常に住みづらい土地」だったということです。

 今はもちろん、そんな面影は全くなくなって、川端康成や大佛次郎や芥川龍之介を始めとする多くの文豪たちの愛した土地になっていますが、頼朝の頃は完全に泥湿地帯であり、由比ヶ浜から鶴岡八幡宮までの道は、雨が降ればぬかるんで、人も馬も通ることができなくなってしまったのでしょう。

 だからこそ頼朝は一段高い場所に道を造成する必要があったのです。それが現在の段葛となりました。今はとても優雅に散歩を楽しむことができますが、当時としては切実な理由があったことが分かります。

 その証拠が、先ほどの『吾妻鏡』にもあります。それは、頼朝が鎌倉の地に初めて入った時、五代前の祖先・源頼義が勧請した鶴岡八幡宮(但し現在の位置でありません。もっと由比ヶ浜寄りにある、「元鶴岡八幡宮」がそれです)を「遙拝」したのです。普通であれば当然、直接出向いて「参拝」しなくてはいけないところでしょうが、「遙拝」──遥か遠くから拝むしかなかったのです。おそらく、そこまで人馬がたどり着けなかったのでしょう。

 また実際に、若宮大路二の鳥居あたりからずらりと並んでいる寺院も、どれもが小町大路に正面を向け、今、段葛のある若宮大路に背を向けているのです。つまり当時そちら側には、何もなかったという名残でしょう。


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